コンセプト・メイキング:プロセス 2014/05

ICTを活用して新しいコミュニケーション、表現を探求したいというのがきっかけ。様々な記憶や想い、夢、思い出を可視化できる、そんなデザイン設計および具現化をしてみたい。

人から生み出された言語やコード、そして人や場所の記憶や経験の断片、トータルにデザインする。それらから紡ぎ出されるモノガタリがあるのではないか。作品を鑑賞するという行為を、もっと日常的にさらに体験化させることはできないのか、そこが次世代型ENgekiのはじまりである。

受発信できるプラットホーム、ネットワーク型の事業体、次世代の文化創造、そんな構想。

今、相談している方からいただいた言葉で・・・

『ネットワーク社会に生きる人々の新しいコミュニケーションを創造し、ひとりひとりがより幸せに生きられる世界にしよう』

が、ミッションとして今のところしっくりくる。そこで、

●共生社会、多様性社会におけるコミュニケーションとは何か。

●ICTを活用して様々な壁を取り除き、新しいコミュニケーションを提案できないか。

が問題提起になってくる。そもそも「幸せとは何か」という大命題もあるが。

さて、今、TwitterやUstream、ニコ動など、本当にたくさんのソーシャルメディアがある。その活用がポイントになる。 ところで、何故Digital ENgekiという名称を辞めたのか?それは、そもそもENは、networkに内包されている。そして関西弁の「ええで(よ)」 にかけたかったからである。つまり「いいですか?」「ええよ」というコミュニケーションを基本にしたかったから。いいとも方式でもありますが。

キャッチフレーズを考えた 

「人 モノ コトのコミュニケーションで地域社会に貢献する」

「伝わるきずな 転がる心」 ー>縁伝

そして、探究のなかから、「enphilo」が生まれる。「en」という「philosophy」が広がること。否定という断絶では何も生まれないのです。もちろん、伝縁さんというラーメン屋さんがあったとの「縁」はよく使われているワードなので、ちょっと色気を出したかったのもありますが。「en」はいろいろとことばに広がりがあります。「演」「宴」「ENtertain」「ENjoy」、そして今年の東近江市の大凧に描かれた「燕」。

さて、いよいよ2014年より、事業活動を始めようということで、事業内容を定めてみる。

  1. 職人とのワークショッププランニング・デザイン事業
  2. 職人の工房見学ツアー及びプロモーション事業
  3. 小学生と中学生と大人による、共に創り、成長していく出会いと学びの場の創出事業

 (つづく)

コミュニケーションデザインについて

例えば、ライフログという考えがあるが、これは、世界を「コギトエルゴスム」とする、一つの方法論であり、存在証明である。自分を正確に伝えるのであれば、日々の生活の記録を見せればよい。でも、そこに何か表現する(したい)意思が入るとどうなるのか?記憶や経験をもとに、表現への純粋なエネルギーが作用されれば、それが事実かどうか問題ではない。例えば、舞台芸術、これは虚であるが、それが創り手にも、鑑賞している側にも真実として伝わる。それこそ、かの近松門左衛門の言う「虚実皮膜」だと思うが。僕はコミュニケーションも虚実の狭間があると円滑に進むのだと思う。 もちろん、やはり現代と社会性は切っても切り離せないので、場にあわせてということであろうが。何かとめどめなく溢れる欲求がある。理解してほしい。しかし理解できない。ここに人間の悲しい運命が待ち構えている。ことばで埋める。言葉が無理なら態度で表す。それが無理なら、自分や周りに何らかのアクションをしようとする。 でも、わからない。わからないからこそ、お互いに通じ合いたい、伝えたいという欲求が生まれる。つまり、対話しようとする。「生きる」ことが人間の大命題だとすれば、豊かに生きたいという欲求は、当然生まれる。そのためにどうしたらいいのか?どうしたいのか?考える、話す、ことばことばことば・・・。 しかし、本当のコミュニケーションというのは、どれぐらい他者に共感できたかということなのかもしれない。 他を感じる、想像する、それがコミュニケーションの始まり、本質なのではないだろうか。つまりコミュニケーションデザインとは、いかに相手に情報をわかりやすく的確に伝えるという従来からのデザインだけではなく、 受け手が想像する、発信されたあるものから、相手を理解する、心を感じさせるための仕掛けや手法による演出や設計を考えたいということである。目の前の物や事象が、心の交流につながる、それが行動につながるということ。それはいわゆる深層でのコンセプトの共有である。 宇宙や星が好きで、よく思うのだが、恒星もそれぞれの距離はそれぞれは大きく離れていて、輝く。でも遠くからみれば非常に近く、何かを形づくる。僕たちもきっと一緒なのだろう。